「教える」ことに執着するわたし
いばらき教育の日・教育月間シンポジウム
井本陽久氏の講演を聴きました。(オンライン視聴)
「教育関係者だけではなく、保護者や人材育成担当者にも」
というPRだったので、日曜日、連れ合いを誘って子供のお昼寝中に視聴した。
ご自身の勤務校である栄光学園の生徒たちの日常写真から、
本題である教育観について語った井本さん。
井本さんの実践は、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」で少し知っていたけれど、
ほんと、タイトル通りに「子供のイキイキ」をとにかく大切にするものだ。
「いま、大人たちは先回りして子供たちに『自分の思う良いもの』を与えようと躍起になっている。
でも、それで本当に子供は幸せですか?
なぜ、子供の『いま』をみないのですか?」
「大人たちが子供を変えようと一生懸命になっているけど、子供たちは「ほんとうに」思うように変わるでしょうか?
子供は自分の手で変わりません。だって自分とは違う一人の人間なんだから。」
井本さんの実践はすごい。生徒たちの目が輝いている。時間を忘れて没頭する子供達がそこにいる。
井本さんの主張もよく分かる。でも、腹の底から納得しているか、と問われると、Yesと気持ちよく答えられない。
井本さんみたいになりたいという気持ちはあることは確かだ。でも、具体的にどうやって?と頭を抱えてしまう自分がそこに居る。
どうして私は両手をあげて彼の考えに賛同できないのだろう?とかえりみると、自分の教育観の根っこが井本さんのそれとは異なるものだからかもしれないと思うようになった。
私は「ありのままの自分はそのままで素晴らしい」と思っていない。
変わらなくてはいけない、成長しなくてはいけない、もっとよりよくあるべきだ、と信じているんだと思う。
自分自身はとても怠惰だし、「ありのままで〜」という言葉は耳に優しく響く。
だからこそ、そんな言葉に甘えてはいけない、と思ってきた。
生徒たちにここまでストレートに伝えてはいないけど、きっと言葉以外のいろんなものでなんとなく伝わってしまっているかもしれない。
こんなことを連れ合いと話していたら、それは私の専門教科が英語であることも関係してるんじゃない?と指摘された。
確かに英語って、「単語覚えて、文法知ってなんぼ」のところがあるから、「教える」っていうイメージが自分の中でも強いのかもしれない。
国語とか社会とかだったら、前提の知識を使ってみんなで考えてみよう、みたいなことがより簡単なように思える。
でも、だからこそ、日常生活の何気ない場面で、生徒に教えてもらったり、生徒と一緒に経験することが私は好きなんだよな。
こうやってぐるぐる、結論は出ないまま。でもこうやってモヤモヤを言語化できたことを小さな一歩と思おう。
ひとりの子の親としては、子の「好き」に存分に付き合いたいな、と改めて強く感じられた講座でした。
井本さんの実践をこれからも楽しみに、私は自分の現場でがんばります。
企画してくださった茨城県教育庁のご担当者様、ありがとうございました。
「~ありのままを認めれば、子どもたちは最高に輝く~」
大切なのは「ふざけ」「いたずら」「ずる」「脱線」
叱らず教えなくても子供は育つ